「資本市場」283号:サブプライムの「戦犯」(?)

CDSのCCPについての記事が手許に届いた月刊「資本市場」283号(2009年3月号)に「欧米のCDS清算機関設立動向」という記事があったので早速目を通し始めたところ、それ以外にも以下の論文が非常に興味深く、思わず読みふけってしまいました。

  • 広田真人「クレジットリスクの破綻は確率現象か?−サブプライム・ショックに対する金融工学の責任を巡って−」
  • 渡辺信一「「金融工学」の誤解−証券化商品に対する批判に関する一考察−」

何れも「金融工学」あるいは「確率・統計論」によるアプローチがサブプライム問題にどのような影響を与えたかということを取り扱っているのですが、タイトルからして対立点は明確です。


広田論文は、「サブプライム問題とは、一言で言えば、本来少なからぬリスクを持つサブプライム関連の証券化商品を低リスク商品と見間違い、低リスク=低リターン型商品を高収益商品に衣替えする定番としてのレバレッジをかけたが、この商品の高リスク性が顕在化し、逆レバレッジ効果に苦しんでいる、ということであろう」とした上で、金融工学には「"社会現象を確率によって把握しうる"といする方法論をまき散らした責任は免れ得ない」として、直感的に絶対的に予測不可能であることが明らかな未来を数学的モデルで処理可能であるかのような「ムード」を作り出した責任が金融工学にあるとしています。
また、モデルについても、ワンファクター・ガウシアン・コピュラ・モデルやクレジット・リスク評価の在り方に本質的な欠陥があったと指摘します*1
そして、次のように小括します。

 金融工学は、確かにCFの組換えの技術であり、その組換えによって様々なリスク/リターンの組合せを新たに組成、さらに限界があるとはいえ、新たに生まれた新証券のプライシングを支えてきたという実績は評価されなければならないだろう。とはいえ、金融工学が確率数理モデルによってリスクを記述・管理しうるという幻想の配布に一役買ったことも間違いない。さらに多重化された証券化商品の場合、プライシングに際し事実上マーケットの代役を担っていた以上、責任という言葉が適当であるかは別としても、その役割がその限界を超えたものでなかったか否か、十分な吟味が必要であろう

これに対して、渡辺論文は「「金融工学」は、仮に責任があったとしても、せいぜい脇役であり、真犯人は、別にいると思う。また、仮に、百歩譲って、「金融工学」に問題があったとしても、そもそも、それは、道具にすぎないのであり、事件が起きたときに、それを道具のせいにすることがおかしいことは明らかである」と述べます。
その上で、証券化商品に問題があったとしても、「それは、市場そのものの問題であって、「金融工学」の問題ではない」と主張し、具体的には、(1)情報の非対称性、(2)格付けが定量評価に頼らざるを得ないこと、(3)与信審査に関するモラル・ハザードの発生、(4)流動性の低さを要因としてあげます*2
そして、証券化商品が高利回りでありながら、高格付けが両立されると言われていたことは認めています。その理由として、以下のような要因を挙げます。

 ・・・証券化商品の格付けの元になる「確率」は、過去の事実に基づいたものである。証券化商品が高格付けとなった原因は、アメリカの住宅価格の高騰によって、低所得者向けのローンの延滞率が低下し、その結果として、これらの商品の証券化商品のデフォルト率が低下したことにある物と思われる。言い換えれば、格付機関がこれらの商品の評価を間違ったのではなく、彼らは、それを正確に評価したからこそ、誤った格付けをしてしまったのである。そこには、一種の合成の誤謬が生じた可能性がある。
 ・・・証券化商品のリスクとして、流動性のリスクがあることを、多くの投資家が、忘れていた・・・
 いくら、証券化商品が高格付け、高利回りであったとしても、そのような商品は、複雑なスキームで構成されているため、流動性が少ないことに気が付くべきであった。また、複雑なスキームであることが、これらの商品の時価の算出を困難にした点も重要である。しかし、そのことは「金融工学」が、問題であるということを意味するものではない。
 また、証券化商品が高利回りだというのも、正確ではない。・・・一見、高利回りであるが、金利低下時には期限前量感が進むので債券価格はそれほど上昇しない。・・・この期限前償還オプションは、原債権の属性や経路に依存する複雑なオプションで、価格評価が非常に難しい。その意味では「金融工学」が危機を招いたのではなく、「金融工学」の不完全さが危機を招いたと言えるかも知れない。
 ・・・仮に、百歩譲って、証券化商品が高格付け、高利回りであったとしよう。その場合、証券化を行った原債権者のバランス・シートからは、優良な資産が消滅し、比較的不良な資産が残ることになる。このことは、原債権者の投資家のリスクが高まったことを意味する。このように、市場全体で考えれば、トータルのリスクの合計は不変であり、証券化は、単に、キャッシュ・フローを組み換えているだけということになる。これは、すでに、1950年代に、MM定理として確立された原理である。

実務家としては、どんな素晴らしい理論も現実にそれをどうあてはめていくかを考えていく、その過程で神が細部にやどるものだと思っているので、理論の方がエンジニアリング(工学)よりも上位にあるかのような広田論文の見方*3には、正直、ちょっと行き過ぎではないかという気もするところです。

他方で、渡辺論文においても、本来エンジニアリングにおいて考慮すべき要因を、「市場そのものの問題であって、「金融工学」の問題ではない」と言い切るスタンスには容易に頷けないところがあります。これは、法学の分野でもいつも思うことなのですが、現実に適用されて初めて意味を有する知識が、現実との双方向的なつながりを否定することは自己矛盾に近いのではないかと思います。
情報の非対称性やモラル・ハザードを考慮に入れることができる、あるいは、それを抑制するような枠組みを考えることを放棄してしまったら、本来「実学」としての「金融工学」の存在意義は失われ、自らの箱庭的な世界を現実世界に無理矢理あてはめようとする数理ファイナンス帝国主義と揶揄されても仕方がない状態になってしまうような気がします*4

・・・と、まあ、私自身はサブプライム問題の「戦犯」を誰か、特定する能力もないので、二つの非常に優れた論文について、自分なりに感じた疑問を書きとどめるぐらいしかできませんが、そもそもサブプライム問題というのは、非常に多様な側面を持った社会現象であり、「戦犯」探しにどれだけ意味があるのかは疑問のところもあります。

その辺りについても、資本市場に掲載されていた以下の二つの講演録は非常に勉強になりました。

というわけで、資本市場研究会に研究会でお世話になっているからということではなく、いつもにも増して今月号の月刊資本市場は読み応えのある号でした。

なお、CDSのCCPについても、勉強になったので、それはまた前のエントリーの続きとして、後ほど。

*1:この辺りのテクニカルな話を評価する素養が私には欠けていますので、広田論文の批判が的を射たものかどうかについては論評を控えます

*2:レバレッジも理由にはあげられますが、これは証券化商品固有のものではないと筆者は述べます

*3:広田論文の末尾は、こう締め括られます。「"工学"がその任務と限界をわきまえず、"経済学"に代替しうるなどという夢に浮かれるとき、現実による強烈な反撃に見舞われざるを得ないのであり、その授業料は安くない。」

*4:その意味では、渡辺論文がMM理論という理論モデルが存在することをもって、現実社会もそうなるべきであるという議論の建て方をしているように見えることも気になります。本来は、MM理論の予測する世界と現実に乖離があった場合には、そこに何らかMM理論の中に取り込まれていない要因があることを疑い、それを明らかにするのが学問的態度ではないかと思います。逆に、MM理論の予測した通りならないから、現実が間違っていたという考え方は、何度でも同じ間違いを繰り返す可能性があります