これから「原発」とどうつきあっていこうか

最初に告白してしまうと、3月11日の巨大地震以後これまでぐらい、自分のチキンぶりを思い知らされたことはありません。
携帯に入ってくる地震速報にびびり、福島第一原発の状況に一喜一憂し、文科省の環境放射線水準を確認しては、家族を実家に疎開させるべきかを思い悩み、今日もまた情報収集をしながら、いろいろなリスクを考えてしまいます。
こういうストレスがかかると、人間は攻撃的になりがちで、私も反省しなくてはと思うことが多々あるんですが、それにしても「原発」まわりのことについては、感情的に過ぎないかと思うことがあります。

一方の極みには、今回の福島の事故をもって、原発は人間に扱えるものではないと決めつけて、早急な原発廃止を求める声があります。
確かに、目に見えない放射線は不安ですし、今もまだ予断を許さない状況であることは間違いありません。
ただ、ギリギリのところとはいえ、今この時点でも、原子炉を制御下に置くための努力は続いています。楽観はすべきではありませんが、核反応の進行は抑制されているようですし、放射性物質の漏出についても二重三重の封じ込め構造が一定の成果をあげているように思えます。また、同じく津波の被害を受けた女川や福島第2原発では今のところ事故は報告されていません。地震の専門家ですら想定外であった超巨大地震と巨大津波の直撃を受けて2週間、亀の歩みのようでも原子炉を制御下に置こうとする営みは続いており、今この時点で白旗をあげてしまうのは、余りにも性急という気がします。

とはいえ、もう一方の極みにある、ともかく原発は経済活動に不可欠なんだから、原発廃止論は非現実的だという決めつけも性急だと思います。
もちろん、今、福島第一原発で起きていることなんて、全て想定の範囲内でリスクは織り込み済みだった、というなら別ですが、普通は、日本の原発はしっかりとした安全体制がとられており、放射性物質の漏洩はまずないという前提で考えていたんではないでしょうか?あるいは、事故は起きるにせよ、例えば、東京の水道で基準値以上の放射性物質が検出されるような状況になるとは思っていなかったのではないでしょうか?
少なくとも、地震前の私の認識はそこまで及んでいませんでした。
そもそも、福島第一原発地震後立て続けに起きた事象については、未だ現在進行中であり、水素爆発や原因不明の黒煙騒ぎ、タービン建屋への放射性物質を含んだ水の流れ出し等々、専門家ですら予想できなかったことや、現場への接近が限定されているため、その原因を確定できないことが多数生じています。
原発の有するリスクは、今回の経験を踏まえて、こうした事象を安全にコントロールできる手法が確立できるかどうかにもよるわけで、当然ながら、リスクの見直しは必要なはずです。
それを見極めないうちから、原発は不可欠だと言っても説得力は感じません。

あるいは、今回の事故でも健康被害が直ちに生じるような水準の放射線被害は出ていないから原発の安全性は揺らいでいないとか、過剰反応だという意見があるのかもしれませんが、これは少し違うと思います。
放射線に関する基準は一定の前提を置いたものであり、短時間の被曝で直ちに健康に影響が出るものではないことは、その通りでしょうが、原発は相当の長期間そこにあり運営されるものであり、また、今回の事故による放射線量の増加がどの程度の期間で収束するのかということも、未だはっきりとしたことは誰も言えない状況です。
今、まだこの時点で健康被害が生じないということと、今後もその心配がないということは、(当たり前のことながら)全く別です。
原発が安全であるというためには、通常の恒常的な運転状況での放射線量が基準値以下に抑えられることはもちろん、今回のような事故による放射線量の基準値超過状況が、最終的に健康に被害を与えるようなレベルに至る前の短期間あるいは狭い地理的範囲で収まって言える話だと思います。
後者は、今まさに進行中ですから、この推移次第では安全性が確保されないという評価になることは十分にあり得ます。

他方で、原発による生命・健康リスク「だけ」を、ことさらに問題視することも合理的ではないと思います。
人間の経済活動は、たくさんの生命・健康リスクを生み出します。それこそ、交通事故で日本国内だけで何千人の人が死んでいますし、たばこは本人の健康リスクだけでなく受動喫煙により周囲の人の健康リスクももたらします。もっとマクロな視点でいえば、電力不足による停電は、例えば暑さ寒さによる健康へのリスクや交通事故リスクの増加などの形で間接的に人の生命身体に影響を及ぼすでしょうし、それによる経済活動の低下は、貧困や社会サービスの水準低下による生命・健康へのリスクを増大させる可能性もあります。
原発による生命・健康リスクは、最終的には原発を失うことにより生ずる、そうした他のリスク要因とのバランスで議論せざるを得ないはずです。

・・と、いつものように、あっちの話もこっちの話にもけちをつけ、結局、おまえはどうなのかと、原発廃止派からも推進派からも石を投げられそうなので、最後に私の「今」のスタンスを明らかにしておきます。

私が、今欲しいのは、自分の頭で考え、自分なりの結論を出すための判断材料です。
中でも、福島第一原発の今の状況のメカニズムは何で、それはどのような形で対処されるのか、そして、今後対処可能なのか。現在進行形で起きている、今のこの事象が、やはり私自身のリスク判断にとって一番大きな要因とならざるを得ません。逆にいえば、福島第一原発の状況がある程度目処がつく前に、原発をどうするかについて自分の意見を固めることはできません。
しかし、別に、何もせずに様子見するつもりはありません。
私自身、今回のことを通じて、原発、そして日本のエネルギー事情について、もっと勉強しないといけないということを痛切に感じています。とりあえず、電気事業連合会が出しているINFOBASEという資料をダウンロードし、ipadに入れて勉強し、同じく電気事業連合会の出している過去の電力統計などを見ながら、当面の発電能力を欠いた東日本での電力供給にどのような道があるのかを自分なりに考えています*1原発の安全性についても、二次情報を鵜呑みにするのではなく、推進派・反対派によるものを問わず、なるべく偏りのない情報を集めていこうと思っています。
そうした個人レベルで判断材料、能力を高めるのとは別に、マクロレベルでは、今回直接に影響を受けなかった既存の原発の安全性についても、早急に検証がなされるべきだと思いますし、その情報は広く公開されるべきだと思います*2。安全性の前提となる想定の妥当性、想定に対する安全確保のための方策の妥当性、想定外の事象が起きた場合の事後的・非常的な安全確保のあり方について広い範囲で多様なレベルの専門家の目にさらされることが、安全性の確保と共に、原発に対する不安感の払拭には必要だろうと思います。
また、想定外の事態が起きたときの原発のもたらす経済的なリスクも踏まえた上で、改めて代替エネルギーやエネルギー需要側の構造転換との経済性比較がなされるべきだと思います(もしかしたら、これまでにも十分それはなされているのかもしれませんが、そこも勉強していきたいと思います)。
いずれにせよ、今回のことを通じて思い知らされたのは、自分と周囲の人たちの生活にかかわる大きなリスクであるエネルギーと原発のことについて、上っ面なことしか分かっていなかったことです。原発反対、賛成と自分の旗幟を明らかにするほどの情報もなければ、そう主張する人たちを合理的に説得できるような材料も有していません。
もちろん、原子力の専門家になろうとは思いませんが、反対・賛成という形で自分の意見を持つのであれば、自分と違う立場の人に対して、自分の立場を説明して説得できる程度には一次情報やロジックをきちんと踏まえないとと思っています。
エネルギー問題というのは、理論で全てが決まる問題ではありません。リスクを定量的に把握することは科学的なアプローチでできるかもしれませんが、その結果明らかになったリスクを、どの限度まで、どのような手続で受け入れていくかは、純粋な科学の問題ではなく社会的・政治的な問題です。
自分の立場が正しいと思うのであればあるほど、その「正しさ」を相手に納得してもらうための丁寧なロジックと対話の姿勢をもって、違う立場の人を説得していきコンセンサスを形成できなければ、その「正しさ」が実現することはありません。

随分長くなってしまったので、最後に、もう一つだけ。
今回の事故について、もう犯人捜し=誰の責任かという議論が始まっているようです。
ただ、元々「原発」については高度の専門性、政治性、経済性が絡まっている上に、そのきっかけとなったのは地震の専門家でも想定外と言ってしまう巨大地震と巨大津波です。
見方によっては、誰かに責任を押しつけることは容易にできるでしょう*3が、今回の事故による巨大な被害の全てを引き受けさせるだけの帰責性を見いだせるかは、そう簡単な話ではありません。
また、「罰」や「責任」は何のためにあるのかという視点も重要です。私は、「責任」や「罰」は、それによって人々のインセンティブに影響を与え、将来過ちが起きないようにするためのメカニズムだと思っていますし、そうした形で運用されるべきだと思っています。
単に、誰か犯人を見つけて溜飲を下げたいというのは、ペストの発生を魔女のせいとして火あぶりにしたいという欲求*4と大して変わらないような気がします。
ここでも、事故の発生メカニズムが明らかになった時点で、将来に向かって同じような間違いを防ぐために必要な責任のあり方という観点から議論がされることを期待したいと思います。

最後に、こちらは昨年の春、福島第一原発から直線距離で50キロほどの三春で撮った写真です。
この美しい場所が、もし人の立ち入れない区域となってしまうようなことがあれば、もしかしたら他のものを犠牲にしても原発は不要と考えるのかもしれません。
感情に偏った過剰反応はいけませんが、こうしたセンチメントは、やはりそれはそれで人間が人間らしくあるために大事なものだということも、特に私のような頭でっかちな人間は忘れないようにしないといけないのかもしれません。

*1:産業インフラである電力が一定期間にわたり不足する状況で、社会がどのように対応していくのかは、壮大な社会実験でもあり、これの行方もまた将来のエネルギー政策を自分なりに判断する上での貴重な情報源となると思います

*2:何でもいいからとりあえず危険だから原発を止めるというのは賛成しません。ただ、原発を止めると電力不足になるからそのまま運転し続けるというのも乱暴な話で、需要予測や地域を越えた電力融通の可能性も踏まえた上で、設備の安全性チェックのロードマップは早めに示すべきだと思います。

*3:つまり、「あれなくばこれなし」という意味での条件関係は、いくらでも見つけることができる

*4:もちろん、手続や理由付けはもっと洗練された近代的なものが使われるでしょうが