ソフトローはおとなの味?

昨日、東証の報告書の話を書いたら、噂になっていた金融庁の金融資本市場国際化SG((正式名称は「我が国金融・資本市場の国際化に関するスタディグループ」です)の報告書案も昨日公表になってました。

内容的には東証の報告書に重なるところや、新聞などでもとりあげられていた社外取締役の話とかもあって、盛り沢山というか、最近の企業法務関係で話題になっていることを鳥瞰するにはお得な内容になっています。
もっとも、こちらは法定開示の強化など立法的な対応も視野に入れたものなので、純粋なソフトローとはいえないかも知れません。ただ、その方向性として開示の充実を基本線にしている辺りの発想はソフトロー的な考え方と親近感を持っているような気がします。

ところで、ソフトローと一口に言っても、実は論者によって色々とイメージが違うところがあります。
しばしば、その形式や内容の一義性が話題にあげられることが多いんですが、個人的にはソフトローのキーワードは「インセンティブ」にあるんではないかと思っています。

つまり、「ハードロー」というのは、お上がこうしなさいと命じていることそのものが権威の根拠なんですが、「ソフトロー」というのは多かれ少なかれ、当事者たちが「その方がお得だよね」という利己的な判断により守られるところが本質ではないかと思っています。

これだけだと、何か抽象的すぎるかも知れませんが、例えば、「日本企業は米国に比して独立取締役が少ない」という事実に直面したとき、「独立取締役を一定割合以上にすることを義務づけよう」という発想は、極めてハードロー的な発想だと思うわけです。

じゃあ、ソフトロー的発想は、どういうことか、というと、何よりもまず最初に「なぜ、日本企業は独立取締役の導入に消極的だったのか?」という疑問に向き合うことです。
そんなの当たり前じゃんと、思うかも知れませんが、この時大事なことは、その状況に現にあるプレイヤー(この場合は日本企業)が合理的な判断力がある主体として取り扱うことです。
もっと砕けていえば、「子供扱い」しないということです。
これまた、当たり前じゃんと、思うかも知れませんが、意外とルールをつくろうとする人たちの発想はそうなっていません。
ついつい「子供扱い」して、「いいガバナンス制度を決めてあげない」と、日本企業の経営者はどうしていいか分からないだろうということを暗黙の前提として、えらい人たちだけで「いいガバナンスとは何か」という議論を一生懸命やったりしがちです。
・・・でも、そんなえらい人たちだけで決める「いいガバナンス」って、どうなんでしょうねぇ?
「いいガバナンス」に一番利害関係を持っているのは、当の企業に自分の人生の大半のリソースを費やしている経営者であり、従業員であり、その人たちに見つけられない「いいガバナンス」を与えてあげるというのは、何か私にはなじめない発想です。

じゃあ、「子供扱い」しないって、どういうことということになりますが、もっと具体的にいえば、次の前提を受け入れているかどうかということではないかと思います。

もし、本当に独立取締役が企業にとって望ましいものであるとすれば、ルールなんかなくたって、企業は独立取締役を入れるはず

にもかかわらず、日本企業が独立取締役の導入に消極的であるとすれば、それは(a)独立取締役が企業にとって望ましくないから、か、(b)独立取締役を入れたくても入れられない他の要因が存在するか、のどちらかということのはず。
何れにせよ、単純に「独立取締役を一定割合以上にすることを義務づけよう」という発想には、すぐには*1結びつかないはずです。

プレイヤーを大人扱いして、その合理的なインセンティブを、うまく活かしてあげる、あるいは、その阻害となっている制度的要因を取り払ってあげて、国家権力のお世話にならなくても、プレイヤーの行動がある予定された枠内に向かっていく・・・これを設計するという発想がソフトローでは大事なんではないかと思います。
そうでないと、ソフトローでも、すぐにサンクションはどうだとか、どうやって強制するのか、と、いった、全然ソフトでない議論になっていっちゃうわけです。

ただ、こういうプレイヤーを子供扱いしない発想が、伝統的な日本の立法府や法律家のマインドセットと整合的なのかというのは、何かよく分からないところです。
米国とは別の発展を遂げてきていますが、少なくとも日本の企業社会は、私はそれなりに「おとなの世界」だと思っていますが、そもそも事実認識として日本の企業はまだまだ子供ばかりだと思う人も多いのかも知れません。ただ、ソフトローが本当に期待されている役割を果たすためには、ルールを定める者と定められる者の二極構造ではなく、お互いの合理性や判断力を信頼する「おとなの世界」を前提としていかなくてはいけないんじゃないかなと思うんですが・・・果たして、そういう世界への心の準備はどうなんでしょうね?*2

*1:「すぐには」と留保を付けるのは、(a)か(b)をつきつめる中で、やはり強制的に義務づけを行う意味がある可能性もあるからです。例えば、囚人のジレンマに陥っているような場合には、強制的な制度設計によって現在の均衡状態を崩してあげることに意味があることもあります。もっとも、ガバナンスについて、そうしたシチュエーションがあるかは、個人的には懐疑的です。ガバナンスについては、ガバナンス体制についての情報開示制度の合理化によって、投資家がガバナンスと企業のパフォーマンスとの間の相関についてある程度分析できるような下地をつくってあげれば、自ずから投資家受けのいい制度に向かっていくんではないかと思っていたりします。

*2:余談ですが、ちょっと前に東北大学の森田先生の経営判断原則の論文がブログ界で問題となりましたが、私は、あの論文は、「経営判断原則も日本に入ったと言っているけど、中身を見てみると、企業人の判断力を信頼するような米国的なマインドセットに移行しているわけではなくて、単に立証とか、裁量権をどこまでみとめてあげるかという企業人に対する法律家の判断力優位構造は崩れてないんじゃないの?」という、シニカルな現状を明らかにしたものかなと思ったりして、読んでいて全く違和感なく、というか、最後の提言っぽい部分はおまけみたいなもんかなとか思ってたりしてました