「株主主権」「株主至上主義」の正体

最近、一部*1流行語大賞候補なのは、「株主主権」やら「株主至上主義」やら言った言葉です。
歴史は繰り返すというのか、何だか2005年、2006年の頃にも、よく聞いた言葉で、その時にも、こうした用語を使った議論がいかに不毛かということを、オブラートに包んでブログに書いたりしました。

最近、歳をとってきたせいか、気が短くなってきていて、昔のよりも物言いがきつくなってきたところがあるのですが、この言葉を濫用する議論は、多くの場合「水からの伝言」議論と同じで、要は「会社従業員の暮らしがきついのは、株主がもうけすぎているからだ」、更にいえば、「成長政策や再分配政策の不備ではない」という結論のために、あちらこちらから便利に使えそうな議論やデータを持ってきているだけだったりではないかと、意地悪な見方をしがちになってしまいます。

・・・と、140時制限のあるtwitterだと、そいういう愚痴で終わってしまうだけだので、会社法やコーポレート・ファイナンスで行われているスタンダードな議論は、どっちが主権者とか所有者とかなんて荒っぽいものではないことを簡単にお話しておこうかなと思います。

まあ、スタンダードなんて誰が判断するんだよ、お前がそんなスタンダードを決める権限あるのかよ、と、言われると困るんですが、私の話で信じられない方はポール・ミルグロム教授とジョン・ロバーツ教授の教科書『組織の経済学』(Economics, Organization & Management)の第9章とか『リーディングス日本の企業システム』第Ⅱ期第2巻企業とガバナンスの伊藤秀史先生の序文辺りを、会社法の議論については、落合誠一先生の「会社法の目的」『現代の法7』所収や江頭先生の教科書(『株式会社法(第3版)』)19-23頁辺りをご参照ください。


コーポレート・ファイナンスにおける企業の「所有」問題

経済学的な意味における「所有」≠法的な「所有権」

コーポレート・ファイナンスや経済学でも、企業の「所有」(ownership)問題はよくとりあげられるテーマですが、注意しなければならないのは、ここでいう「所有」は経済学的な用語であって、法的な「所有権」とは一致していないことです。なので「 」をつけたわけですが、議論の混乱は大体この辺りから生じます。

ミルグロム=ロバーツの件の教科書を引用しておきましょう。(321頁(下線は私))

会社を所有しているならば、(省略)・・・等々の権利を有する。経済分析のうえでは、「資産を所有する」という関係を、残余コントロール権(residual rights of control)―すなわち、法の定めや契約によって他人に割り当てられている以外の資産運用法についての決定権―を意味していると理解するのが有用である。

既にここに回答があるのですが、そもそもコーポレート・ファイナンスの議論では、「所有」していれば何でもできるなんて、全く考えていません。
会社の有する資産の中には、法律や契約によって他人がコントロールする権利があることを前提として、そうした事前の取り決めのない資産について誰がコントロールすべきか、あるいは、どのようにコントロールされるべきかを論じているだけです。

では、このような残余コントロール権を誰に与えるのが望ましいでしょう?
経済学的にいえば*2、そうした残余コントロールの下にある資源を最も有効に活用できるインセンティブを持っている人に与えるのが一つの解決になります*3
こういうインセンティブを持っている人というのは、会社の保有している資産から生まれる経済的利益*4のうち、これまた税金のように法律で払わなくてはいけないもの、利子のように契約によって支払わなければいけないものをのぞいた、それ以外の経済的利益=「残余利益」を得られる者ということになります。
これを残余権者=residual claimantというわけです。

誰が「残余権者」か?

さて、では企業の場合には誰が「残余権者」でしょう?

資金提供者という側面から見ていくと、銀行などの債権者はまさに「契約によって取り分が決まっている」人たちですので残余権者ではありません*5
これに対して、株主は確実に会社から経済的利益の分配を受けることができるわけではありません。企業の業績が悪ければ配当がないどころか、株式価値は下落します。
これは、法的に、株主は他の会社債権者に劣後することが定められているからです。
この意味で、株主を「残余権者」と位置づけることについては、それほど異論はありません。

もっとも、株主だけが「残余権者」かについては、議論があり得ます。

例えば、従業員の賃金債権自体は契約や法律(最低賃金)によって株主に優先しますが、業績の変動によって解雇されたりされなかったりということがあるとすれば、やはり残余利益がどうなるかについて強い関心を持っています。

あるいは、経営者も同じように業績の変動によって地位が危うくこともあれば、そもそも業績によって報酬額が変動するとすれば、やはり残余利益の多寡に強い関心を持つことになります。

・・・さて、「残余権者」を見つけることができれば、コントロール権の所在は決まると思っていたんですが・・・困ったことに、ちょっと考えただけでも、「残余権者」候補には株主、従業員、経営者があります。
場合によっては、地域社会の基幹産業(デトロイト自動車産業みたいな奴ですね)だとすると、関連企業や、学校、住宅デベロッパーなんかも、間接的な残余権者といえそうです。

と、ここで勘の言い方はお気づきだと思いますが、この種の間接的につながるいろんな人が「ステークホルダー」と呼ばれるわけです。

「残余権者」の中でどのようにコントロールを分配すべきか?

さて、ではこうしたたくさんの「残余権者」候補の中の、「誰が」あるいは「どの組み合わせ」が最も望ましいのでしょう?
経済学的な観点で問題となるのは「取引コスト」、より具体的にいえば、「エイジェンシー・コスト」と呼ばれる問題です*6
株主も、経営者も、労働者も、あるいは、取引先も、それぞれがそれぞれに自分固有の利益を持っています。
なので、残余権のコントロールを委ねた場合には、残余財産の総価値を高めることよりも、本来他の残余権者に帰属すべき部分を自分に持ってくる(wealth transfer)可能性もあるわけです。
こうすると、残余財産の総価値を高めるというインセンティブを持たない人がコントロール権を持つことになるという意味でも非効率的ですし、それを防止するために、お互いがお互いを牽制したりするということになると、これまで無駄なコストがかかります。
こうしたコストをエイジェンシー・コストというわけですが、これを最も少なくする組み合わせが最も望ましいということになります。

どのような組み合わせが最適か、ということについては、きわめて実証的な話になります。
ただし、以下のような理由から、「従業員にコントロール権を与える」という結論になることは希です。

  • 従業員は、従業員の中でも、本人の能力、担当職務、地位、年齢等により利害が対立しており、この従業員間でのエイジェンシー問題の解決には膨大なコストが必要となる。
  • 従業員のインセンティブを阻害することは、結果として企業の生産性を削ぐため、どの残余権者からみても得策ではない。従って、従業員の生産性を向上するような制度をとることは、他の残余権者にとっても利益であり、エイジェンシー問題は緩和される。
  • 従業員が会社から受ける利益の主要なものが賃金であるとすれば、それ自体は法律や契約で一定の保護がなされる*7
  • 80年代、90年代の企業買収ブームの際に、買主が支払ったプレミアムの源泉が従業員からの価値移転ではないかを調べたSchleiferらの研究を含め、実証的に株主が従業員から価値移転を行っているという仮説をサポートするものが乏しい
  • 成功している会社のほとんどが現に株主に残余コントロール権を付与する形で運営されている(もし、そうした設計が残余権の最大化に不利であれば生き残れない)
日本は特別?

さて、上の議論は米国で発展したものです。それを日本にそのままあてはめるのはどうかと言われるかも知れませんが、理論的なところは、きわめて普遍的な話です。その普遍的な部分以外のところで日本の独自性があり、それ故に米国とは異なる制度設計が望ましいというのであれば、それなりの論拠は必要です。例えば、以下の点について積極的な主張が必要だろうと思います。

  • 日本企業では従業員間のエイジェンシー問題の解決は容易である。
  • 従業員にコントロール権を与えても、株主からの価値移転を行わない*8と株主に信じてもらえるインセンティブ的な保証がある*9
  • 実証的にみて、株主が従業員からの価値移転を行っていることを疑う十分な証拠がある*10

株主利益最大化を「ひとまずの」目標とした上で、従業員を含めた他のステークホルダーとのバランスが崩れる可能性のあるところは個別立法で対応するという枠組みは、米国でも、そして日本でも従来それなりにうまくいってきたわけですから、それを変えようというのであれば、やはり、それはそう主張する側に立証責任があると考えるべきではないかと思います。

ところで、「株主主権」とか「至上主義」ってどこ?

さて、以上に整理したように、株主利益最大化原則は、あくまで法律や契約で取り分が決まっているもの以外の残余の資産のコントロール権に関する議論であり、そもそもその対象が限られています。
そして、その残余部分へのコントロール権の付与にあたっても、何も考えず宗教のように株主が最高権力者といったことで決めているのではなく、残余権者たり得る者が複数存在することを前提に、その中で比較的エイジェンシー問題が相対的に低い組み合わせは何かということを分析した上で、株主利益最大化をひとまずの前提としているだけです。
何か「民主主義」と同じような一種のポリシーとしての「株主主権」があるわけでも、株主様は絶対不可侵でるかのような「株主至上主義」が掲げられているわけでもありません。

まあ、そういう対立構図に持ち込むことで、自分の言わんとすることに理由をつけようとする試み自体は、別に日本に限らずどこの国でも起きたことですが*11、「株主主権」とか「株主至上主義」は、本当は存在しない仮想敵国でしかないということは、やはり指摘しないと寝覚めが悪いと思うわけです。

ちなみに、今の日本の会社法は?

もう一つ、これは逆の立場から「日本は法律で株主が会社の所有者に決まっている」といった発言があり*12 、それがまた仮想敵国が実在するかのような幻想を却ってあおっているということになってしまっているようです。

しかし、ここで法律家の端くれとして、はっきりと言っておきます。

どの条文であれ、会社法には会社の所有者なんて、どこにも書いていません。そもそも、「会社の所有権」なんて概念自体が存在していません*13

むしろ、会社法は、株主は株主総会を通じて「法令又は定款に定められた」限定的な事項について決定権を有するというだけであり、その意味では、株主の有する残余権コントロールも制限的なものでしかないということで、株主の多数決によるコントロールに制約を加えています。また、取締役の義務内容も、色々な議論はありましたが、あえてその義務の名宛人は「株主」ではなく「会社」とされています。(会社法355条)
そして、取締役が会社の業務執行にあたって任務懈怠によって、(株主以外も含む)第三者に対して損害を与えた場合には、個人責任を負う構造となっています(429条)。

その上で、上記のようなコーポレート・ファイナンスにおける議論と同様の議論を経て、あくまで解釈論として、取締役は第一義的には株主利益最大化を尊重すべきと言う義務を認める論者が多いというに過ぎません。そうした論者もまた、そうした株主利益最大化原則は、あくまで色々な制度設計の可能性がある中で、経営者による利益相反問題をコントロールするという会社法の目的の上では、株主利益最大化原則が望ましいといっているだけです。
私の言葉だけで信じられないかも知れないので、江頭先生の教科書の記述を引用しておきましょう(江頭『株式会社法(第3版)』20頁。

株式会社においては、対外的経済活動における利潤最大化を始めとする「株主の利益最大化」が、会社を取り巻く関係者の利害調整の原則になる。・・・もっとも、右の原則は、他の利害調整原則を排除してどこまでも貫かれるべき性質のものではない。したがって、その原則の効果の帰結としての法的効果は、次に例示するように、法規範としては緩いものである。

このように、会社法の世界でも絶対性を示唆するような「株主主権」や「株主至上主義」は主張されたことはありません。
実は、これはアメリカでも、ほぼ同じ議論(というよりもアメリカにおける議論をなぞっている)です。

実際、アメリカの企業に対する、証券市場における開示規制、環境規制、労働者に対する差別的雇用・解雇、反トラスト法などの競争法などの規制は、日本よりも遙かに厳しいものです。
これらを遵守することは、上場会社として当たり前のことであり、コンプライアンスという概念やそれを重視する姿勢自体、米国企業が最も進んでいたわけです。
米国における株主利益最大化は、上に述べたように法律や契約において確保されたものを遵守するという前提の中で、その残余の最大化に向けられたものです。

私も日米の議論を網羅しているわけではありませんが、こうした限定された意味での株主利益最大化と異なる絶対的な教義のような意味での「株主主権」や「株主至上主義」を主張している人というのをあげろと言われても、実は全く思いつきません*14

というわけで・・・

まあ、そういうわけで真面目に書こうと思うと、やっぱり大変な分量になりそうなんで、はしょったりなんだりしていてぐだぐだしてきましたが、私が言いたいのは、こういうことということで。

  • 「株主主権」とか「株主至上主義」というのは、それを攻撃するためにする仮想敵国であり、実際には極端な意味でのそういうものは存在しないし、米国も含めてそういう制度にはなっていない。
  • 現在、日米の解釈論として受け入れられている「取締役ないし経営陣の第一義的な目的は株主利益最大化である」ということが意味する範囲は、残余コントロール権の問題であり、限定された範囲のものである。
  • また、「株主利益最大化原則」はともかく株主は偉いとかいう教義的な発想から生まれているのではなく、従業員や他の者に残余コントロール権を与える議論も踏まえ、そうした論者との議論を経つつ、それらの議論に堪えつつ、それでも実際に採り得る制度の中では最善のものとして採択されているものである。
  • そうした理論的なバックボーンに対して、理論面あるいは適切な実証データを用いた議論は生産的だが、存在しない教義的な仮想敵国をつくりあげて、それのおかしさを論難するだけの議論は不毛なのでやめませんか

ということです。

・・・まあ、何かやっぱり書き終わって見てみると、分かる人はそうだよねということで分かるし、これを分かりたくない人には伝わらないかもなと思いつつ、まあ、こんなところで、今日は勘弁してください。

*1:twitter界隈

*2:複数の選択肢の何れが望ましいかということの判定基準として(パレートの意味での)効率性を用いるということだと理解してください。効率性が政策目的として適切ではないという議論の当否については、それ自体一大テーマなので、今回は扱いません

*3:もちろん、その資産を有効に活用できる人を世界中から見つけ出して、その人にやらせればよりいいでしょう。しかし、このようなことはコストがかかるというか、そもそもそんなこと事前に判別することは無理といってさしつかえありません。そこで、まずはインセンティブに着目して、更にインセンティブを有する人たちの間での取引を通じて、その資産を一番有効に活用できる可能性の高い人が自ずから名乗り出ることを期待するわけです。

*4:キャッシュフローとして表現されることが多いので、いわゆるSecurity Designの世界ではコントロール権と対比してキャッシュフロー権という言い方をします

*5:この辺りも、劣後債とか業績連動債、あるいはCBとかは微妙です。こうした資金提供者間でのコントロール権とキャッシュフロー権の分配をどのように行うのが効率的かということについては、近時Security Designということで着目されています。詳しくは、森田果先生がどっかで書いてた論文(民商だっけ?)をどうぞ

*6:まあ、本当はさらに判断コストの問題があって、株主のような集合は集合行為問題を抱えているので適切な意思決定をできないという問題があるので、実際には株主を残余権者として位置づけしつつ、経営者ないし取締役をその代理人として位置づけて、実際の権限は経営者に与えるということになるわけですが、今回の議論の中では本題ではないので割愛します。一つだけ言っておくと、事実問題として経営者がコントロールを有しているのは、残余権者としてではなく、あくまで残余権者たる株主の代理人としてです。これは経営者は出資者である株主の財産を移転しようとする強いインセンティブを、従業員と同様に(あるいは従業員よりも権限があるだけより強く)持っているから、経営者が個人的な利益を追求することを前提としたコントロール権の付与は不適切となる可能性が高いからです。

*7:「一定の」と留保をつけたのは、ホールドアップ問題があるからですが、ややこしくなるので、ここでは割愛します。ただ、雇用者と被用者間のホールドアップ問題は、この両者の間での契約アレンジで対処できる部分も多く、会社の残余コントロール権まで与える必要は高くありません。

*8:例えば、株主が出資した資金を、会社価値を高めるプロジェクトに投資するのではなく、自分たちの賃金上昇に回しませんと株主が信じるかどうかです。これは基本的に起業家と出資者との間のホールドアップ問題と同じ話ですので、繰り返しゲーム状況を考えれば、そういう流用をやってしまうとその後の資金調達ができなくなるという形で、最後のゲームの直前までは満たされる可能性はあります。もっとも、従業員の場合には、やはり内部での利害状況の対立が深刻となる可能性があるでしょう。例えば、定年間近の従業員は流用のインセンティブが高く、若い従業員は低いとかです。これを応用すると、若い従業員にコントロール権を付与するシステムの方が出資者に信頼されやすいということになるかも知れませんね。まあ、これはこれで考え出すといくらでも議論できそうな話ですが。

*9:詳しくは述べませんが、プロジェクトの実行から得られる利益の一部は必ず他の債権者や株主に還元しなくてはいけない状況において、従業員がそれを自分への分配に回さず、リスクのあるプロジェクトへ投資するためには、それなりに色々な前提条件が必要です

*10:ここでいう証拠は、単に労働分配率が、とか、リストラがとかいう印象論ではありません。例えば、従業員持株比率が拒否権を有する水準まで持っている企業とそうでない企業(そんな企業がそもそもあるのかという話ですが)と従業員への賃金レベルが他の変数をコントロールした上で統計上有意に差を有するとかいったものです。

*11:米国でも90年代にLBOが従業員から株主への利益移転を促進していると議会で話題になったようです。

*12:しかも、これは反論になっていません。簡単にいえば、「それなら、その法律を改正すればいいだけ」だからです。立法論や制度論を議論している時に、「今の法律がカクカクシカジカ」というのは、何ら正統性の根拠になりません。ただ、これもしばしば法律=倫理的にも正しいというすりかえで用いられます。これまた法の限界を知る法律家からすると悲しいことです。

*13:ちなみに、会社法105条は株主は「その有する株式につき」論じたものです(当然ながら財産権としての株式には所有権はあります)。また、105条は逆にいえば、ここに書かれたもの以上の権利を認めていないということの裏返しであり、「会社に対する所有権」など定めたものではありません

*14:ある意味、全ての問題は財政政策で解決できるといっているリフレ派みたなもの?